工藤さんが逝去された
2008-07-07


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工藤さんが亡くなった。ポーランド文学者の工藤幸雄。前の勤務先で同僚だった。年齢的にはほとんど親子といってよかったが,工藤さんとは妙に馬が合った。1980年代半ば以降に上梓された作品はほとんど恵投いただいた。昨年の12月に届いた詩集『十一月―ぼくの生きた時代』が最後となった。「ぼくの葬式」などというのも入っていた。洒脱な人だった。

わたしの記憶に間違いがなければ,寺山修司が亡くなったとラジオが伝えた時,わたしはクルマを運転していたが,助手席には工藤さんがいた。寺山と親交のあった工藤さんは,一瞬ことばをのみこんだ。みごとな夕焼けが,国道16号線の向こうの空を染めていた。工藤さんは,ただ,こんなきれいな夕焼けを見たのは何年ぶりだろうか,とつぶやいた。

工藤さんは,寺山の葬儀に際して,

「寺山修司葬儀場」の墨書を見つつ参りし人かず二千とやきく

身を捨つるほどの藝術ありと見つけしか四十七にて寺山の逝く

「はい,そこまで」――寺山修司が手を拍ちて葬儀の中止さけぶを待ちしが

など,5首を即興として残している(『ぼくとポーランドについて,など』所収)。

工藤さんは,人を人として扱わないものに対してはいつも憤然と立ち向かった。わたしの言葉を使えば「市場経済の理不尽」を睨視していたし,「“社会主義”の暴圧」に対して容赦なく罵言を見舞った,ということになる。人を人として遇さないことを許さないのは日常の何気ない場面でも純粋にそうであった。だから年に2度は怒りを爆発させる人でもあった。3回ではないし,1回でもない。きまって2回というのが工藤さんの人柄をあらわしていた。

90年代に入り,工藤さんが定年を迎えるまでの5,6年間,毎週木曜日の夕方には夜間の授業のある別のキャンパスにクルマで移動した。わたしがハンドルをにぎり,工藤さんが助手席にすわる1時間ほどのドライブ。多摩川沿いの道に偽アカシアが咲いていたのは,初夏から梅雨時だったと記憶する。子ども時代を過ごした(真の)アカシアがたたずむ大連の美しさ。ポーランドの様々な話。アンジェイ・ワイダの魅力。レフ・ワレサと自主管理労組「連帯」のこと。戦後間もなく東大,一高の学生によって発刊された総合文化誌的同人誌『世代』のこと。たくさん,たくさん聴いた。そして「言葉」についても。〈言語〉というよりも表現にいのちを与える「言葉」の話だった。実に多くのことを教えていただいた。

ただ少なくともひとつだけ,私が「教えたこと」があった。わたしが工藤さんのパソコンの「師匠」だったからだ。定年間際にPCを覚えた。もちろん昔からタイプライターは手馴れたものだったからタイピングはまったく問題なし。むしろローマ字入力のナンセンスをいつも詰っていた。しかし工藤さんは,Macの“遊び心”に惚れていたから上達は早かった。仕事はすべてデジタル原稿となったし,メールも自在にやり取りするようになった。そしてついにブログにまで進出した。最期になってしまったブログにはこう書かれている。

小生、永年に及ぶ喫煙の悪習の結果、肺気腫その他の診断を受け、明後12日に入院します。しばらくというか、当分の間か、ブログは休みとなります。 ごあいさつまで。

入院中の用意に、初めてケータイを買いました。末尾の数字<4771>に気をよくしています。
では、みなさま、ごきげんよう
工藤 幸雄拝

工藤さんと煙草のつながりは優に70年はあったのではないか。10代の初めからではなかったかとさえ思う。キーボードには半透明のカヴァをつけていたが,いつも煙草の灰で覆われていたのがありありと思い出される。ポーランドのウォッカの味に似ているといって工藤さんがこよなく愛した大分の麦焼酎。アトリエと名のついた自宅には何本残されたのだろう。さみしくなった・・。
[表現]

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